現代の「悲劇の王妃」か、悪魔の妻か 1
2008年 04月 25日
An enduring love...不朽の愛、と訳すのかな。
著者はファラ・パーレヴィ。イラン最後の王妃...つまり、イラン最後の王朝となったパーレヴィ(パフレヴィーとも)王朝の、2代目にして最後の王、モハンマド・レザー・シャー・パーレヴィの、3人目の、そして最後の妻。
バーレーン旅行の途中、乗り継ぎのドバイ空港でこの本を見たとき、すごく興味を持ったけれど、この本、けっこう厚い。本編に限っても425ページ。しかも一般的なペーパーバックより版が大きいので、かなり読みでがありそうだ。というか、読みきれるんだろうか。
旅行中さてどうしようかと考えつつ、こういうものは、次の機会はないかもしれず、過去にも後悔した経験があるので、帰りの空港で思い切って購入。
私が買った英語版は、フランス語からの翻訳で、アメリカで2004年に出版された。
もともと自伝だし、翻訳でもあるので、特に妙な修辞などもなく、厚さの割には読みやすかったが、途中からシャー(国王)の病気の話題が多くなり、医者の手紙の引用などが続く場面は正直、さっぱり判らなかった。普通の辞書には載ってないような単語がドカドカ出てきて、核心に触れる病名はネットで調べたりしながら読んだけれど、細部は(リンパ球がどうなったせいで脾臓のナントカがどうした、とか)話の流れに影響しないと思うことにして、判らなくても無視して進んだ。
さて、若い人は知らないかもしれないけど、イラン・イスラム革命という、歴史上の大事件がある。
私もこどもだったので(はい、とっくに生まれてました。モノゴコロもついてました)当時はなんのことかさっぱり判らなかったけれど、周りの大人も、普通の人は何が起きているのか、多分ほとんど理解できなかったと思う。私の記憶にあるのは、ホメイニ師の肖像を掲げた大群の映像だけだ。
まだまだ現代史なので、もうしばらくたたないと、客観的な評価はかたまらないと思うけれど、今の世界の認識で平たくいうと、急激に西洋型の近代化を推し進めようとした国王の失政や、社会の矛盾に国民の不満が高まり、宗教界のリードもあり”すべてはイスラム倫理を軽視し、アメリカとそれに追随する国王の責任”とする世論が爆発し、パーレヴィ王朝が倒れ、シーア派イスラームによる政教一致の宗教国家、イラン・イスラム共和国が誕生した、ということになる。多分。
この革命の成功に世界はまさに腰を抜かし、周辺のアラブ国家の王族は、イスラム革命が自国に飛び火するのを恐れ、欧米もそんなことになったら石油はどうなるの!とあわてつつ、じゃあどうしようという方針もないまま、世界は混乱の中で右往左往し、なんだかよく判らないうちにイラン・イラク戦争勃発。ここでイランに勝たれちゃ大変とイラクに肩入れしたアメリカは、結果的にサダム・フセインを育て、思えばあのとき武器も供給しちゃったわ!ということに、ずっと後になって青くなったり...(ものすごくいい加減なまとめ方なので、真に受けてそのまま信じたり、怒ったりしないでください)でも、それはまあ、別の話。
私はまずこの本を素直に読み、それからネットでいろいろパーレヴィ王朝のことなど見てみたけれど、あまりの内容の違いに、どっちがどこまで本当?という戸惑いが大きかった。
ファラ王妃は、イスラム革命で国を追われた身であり、当然反体制派である(アメリカ在住の長男が、王朝再建を目指して活動しているらしいけど、イランでは相手にされてないという説も)。それは、今のイランの政治体制を非難する国にとっては、都合のいい人物かもしれず、王家の放浪生活の初期に受入を拒否したアメリカで、この英語版が出版されていることを考え合わせると、政治的な意味合いも無視できない気もする。
とりあえず、この本の内容をざっと書くと、まず、国王一家が「休暇」の名目でイランを発った朝から始まる。
「1979年1月のあの朝のことを思うと、私は再び胸を引き裂かれるような悲しみを覚える」
そして自家用機がエジプト南部のアスワンに向けて飛び立ったところでこのプロローグは終わり、ファラ王妃の子ども時代へ飛び、そこから彼女の半世紀が語られる。幼少時の父の死、10歳で入学したフレンチ・スクール“ジャンヌ・ダルク学校”での青春時代、建築を志して留学したパリ時代、そして王との出会い、結婚。
そこから一転した彼女の人生は、王妃として公務をこなし、男子を産んだ以外にも自分の役割を考え(王は二人目の王妃ソラヤを男の子が授からないために離婚している)、福祉と女性の地位向上に力を注ぐことになる。
しかし、いつからか変わってきた国民の反応。ごく内輪の人間しか知らなかった王の重い病。そして起きた聖地ゴムでの事件...自分が国を離れる以外に流血の事態を収める方法はないと決意する王。しかし、すべての不具合を王のせいにして、主義主張の違いを超えて団結していた人々は、王の亡命後、一気にまとまりをなくし、内戦寸前の事態へと転がっていく。親しかった人たちの処刑のニュースが次々と入り、憔悴していく王。そして、政治的な理由で欧米諸国が受け入れを拒否する中、エジプト、モロッコ、バハマ、パナマと闘病中の身で居所を転々とし、国を出て18ヵ月後、王はエジプトで死を迎える。
国を出たとき、4人の子どもたちはまだ幼く、生活環境の激変と先の見えない不安定な生活が、特に末娘のレイラの心に与えたダメージは大きく、長じて彼女は睡眠薬を常用するようになり、ついにはロンドンで悲劇的な死を迎える。
亡命生活の中で夫と母を亡くしたファラも「子どもの死を乗り越えられる人はいない」と書き、この後アメリカで深く沈みこむ日々を送ったが、あるとき長男の娘(同じ亡命イラン人と結婚して2児を設けている)に写真を見せて昔語りをしていたときに「おばあちゃまは、私たちはイラン人で、私はプリンセスだって言うけど、私は自分の国を知らない。帰れもしないのに、そんなお話やたくさんの写真に何の意味があるの?」と聞かれたことで、この本を書く勇気を得た...というところで、本は終わっている。
この内容を一切疑わず素直に読むなら、この人はかなり常識的な人物で、心底可哀相な人である。なんでここまで波乱万丈な人生を送らなくてはならなかったのか。何箇所か、涙腺がゆるんだ(私は本や映画で泣きやすいほうだけど)。
たとえば、国を出るときの話。
高価な所持品を持って行くよう勧める召使をさえぎって、彼女は特に好きな本とアルバムだけを持ち出す。
国が落ち着いたら戻ってこられるのではという希望を捨てたくない思い、そして自分達が国を出たと知ったら暴徒が王宮になだれ込むだろうから、そのときに財産をすべて持って逃げたを思われたくないと言うプライド...思い出の品だったあっただろうに、置いて行くのはどんな気持ちだったか。そのおかげで、私たちはテヘランに行けば博物館で王家の財宝を見られるらしいが...。
また、ニューヨークでの療養中、入院していた病室の外で「王に死を!」と叫ぶデモの声を聞く場面。本当に死と闘っている人の前で、なんという心ないふるまいかと胸の破れる思いをするが、病床の王のそばにいる彼女は、そこで泣き崩れるわけにはいかない。そして起きる、在テヘランアメリカ大使館占拠事件...あなたは国民のために尽くしてきたと過剰なまでに王の業績をたたえたうえで、そんなあなたなればこそ、人質を救うために、犠牲になってくれと説得にくる役人...。
そして、娘の死。
パリにいて、どんどん安定剤や睡眠薬の量が増えていっていたレイラ王女が、一人でロンドンに行きたいと言い張り、医者も認めざると得なくなり許可するが、ファラ王妃は心配でならず、ロンドンの友人に様子を見に行ってくれと頼む。王妃は、王女を起こすことを極端に恐れていた。なぜなら、電話で起こされた王女はこう言うのだ。「ああ、お母様なのね。今私、眠ってたのよ。ほら、これでまた眠るために睡眠薬を飲まないといけなくなったわ」
こんなひどい言葉をきいたら、娘の身を案じる親はどんな気持ちがするだろうか。いくらあなたが辛いからって、病んでいるからって、こんなこと言ってはいけないよ。あまりに可哀相で泣けてくる。
そして虫の知らせなのか、イヤな予感に焦りを覚えた王妃の依頼で、王女の泊まっているホテルを訪問した王妃の友人は、王女の死を知る...あああ、あんまりだ。
不幸にしてこの種の経験をしてしまった人には、読んでほしくない本かも...。
気の向くままに書いてみたら長くなったので、今日はいったんここでやめます。
続きは週末にでも。
著者はファラ・パーレヴィ。イラン最後の王妃...つまり、イラン最後の王朝となったパーレヴィ(パフレヴィーとも)王朝の、2代目にして最後の王、モハンマド・レザー・シャー・パーレヴィの、3人目の、そして最後の妻。
バーレーン旅行の途中、乗り継ぎのドバイ空港でこの本を見たとき、すごく興味を持ったけれど、この本、けっこう厚い。本編に限っても425ページ。しかも一般的なペーパーバックより版が大きいので、かなり読みでがありそうだ。というか、読みきれるんだろうか。
旅行中さてどうしようかと考えつつ、こういうものは、次の機会はないかもしれず、過去にも後悔した経験があるので、帰りの空港で思い切って購入。
私が買った英語版は、フランス語からの翻訳で、アメリカで2004年に出版された。
もともと自伝だし、翻訳でもあるので、特に妙な修辞などもなく、厚さの割には読みやすかったが、途中からシャー(国王)の病気の話題が多くなり、医者の手紙の引用などが続く場面は正直、さっぱり判らなかった。普通の辞書には載ってないような単語がドカドカ出てきて、核心に触れる病名はネットで調べたりしながら読んだけれど、細部は(リンパ球がどうなったせいで脾臓のナントカがどうした、とか)話の流れに影響しないと思うことにして、判らなくても無視して進んだ。
さて、若い人は知らないかもしれないけど、イラン・イスラム革命という、歴史上の大事件がある。
私もこどもだったので(はい、とっくに生まれてました。モノゴコロもついてました)当時はなんのことかさっぱり判らなかったけれど、周りの大人も、普通の人は何が起きているのか、多分ほとんど理解できなかったと思う。私の記憶にあるのは、ホメイニ師の肖像を掲げた大群の映像だけだ。
まだまだ現代史なので、もうしばらくたたないと、客観的な評価はかたまらないと思うけれど、今の世界の認識で平たくいうと、急激に西洋型の近代化を推し進めようとした国王の失政や、社会の矛盾に国民の不満が高まり、宗教界のリードもあり”すべてはイスラム倫理を軽視し、アメリカとそれに追随する国王の責任”とする世論が爆発し、パーレヴィ王朝が倒れ、シーア派イスラームによる政教一致の宗教国家、イラン・イスラム共和国が誕生した、ということになる。多分。
この革命の成功に世界はまさに腰を抜かし、周辺のアラブ国家の王族は、イスラム革命が自国に飛び火するのを恐れ、欧米もそんなことになったら石油はどうなるの!とあわてつつ、じゃあどうしようという方針もないまま、世界は混乱の中で右往左往し、なんだかよく判らないうちにイラン・イラク戦争勃発。ここでイランに勝たれちゃ大変とイラクに肩入れしたアメリカは、結果的にサダム・フセインを育て、思えばあのとき武器も供給しちゃったわ!ということに、ずっと後になって青くなったり...(ものすごくいい加減なまとめ方なので、真に受けてそのまま信じたり、怒ったりしないでください)でも、それはまあ、別の話。
私はまずこの本を素直に読み、それからネットでいろいろパーレヴィ王朝のことなど見てみたけれど、あまりの内容の違いに、どっちがどこまで本当?という戸惑いが大きかった。
ファラ王妃は、イスラム革命で国を追われた身であり、当然反体制派である(アメリカ在住の長男が、王朝再建を目指して活動しているらしいけど、イランでは相手にされてないという説も)。それは、今のイランの政治体制を非難する国にとっては、都合のいい人物かもしれず、王家の放浪生活の初期に受入を拒否したアメリカで、この英語版が出版されていることを考え合わせると、政治的な意味合いも無視できない気もする。
とりあえず、この本の内容をざっと書くと、まず、国王一家が「休暇」の名目でイランを発った朝から始まる。
「1979年1月のあの朝のことを思うと、私は再び胸を引き裂かれるような悲しみを覚える」
そして自家用機がエジプト南部のアスワンに向けて飛び立ったところでこのプロローグは終わり、ファラ王妃の子ども時代へ飛び、そこから彼女の半世紀が語られる。幼少時の父の死、10歳で入学したフレンチ・スクール“ジャンヌ・ダルク学校”での青春時代、建築を志して留学したパリ時代、そして王との出会い、結婚。
そこから一転した彼女の人生は、王妃として公務をこなし、男子を産んだ以外にも自分の役割を考え(王は二人目の王妃ソラヤを男の子が授からないために離婚している)、福祉と女性の地位向上に力を注ぐことになる。
しかし、いつからか変わってきた国民の反応。ごく内輪の人間しか知らなかった王の重い病。そして起きた聖地ゴムでの事件...自分が国を離れる以外に流血の事態を収める方法はないと決意する王。しかし、すべての不具合を王のせいにして、主義主張の違いを超えて団結していた人々は、王の亡命後、一気にまとまりをなくし、内戦寸前の事態へと転がっていく。親しかった人たちの処刑のニュースが次々と入り、憔悴していく王。そして、政治的な理由で欧米諸国が受け入れを拒否する中、エジプト、モロッコ、バハマ、パナマと闘病中の身で居所を転々とし、国を出て18ヵ月後、王はエジプトで死を迎える。
国を出たとき、4人の子どもたちはまだ幼く、生活環境の激変と先の見えない不安定な生活が、特に末娘のレイラの心に与えたダメージは大きく、長じて彼女は睡眠薬を常用するようになり、ついにはロンドンで悲劇的な死を迎える。
亡命生活の中で夫と母を亡くしたファラも「子どもの死を乗り越えられる人はいない」と書き、この後アメリカで深く沈みこむ日々を送ったが、あるとき長男の娘(同じ亡命イラン人と結婚して2児を設けている)に写真を見せて昔語りをしていたときに「おばあちゃまは、私たちはイラン人で、私はプリンセスだって言うけど、私は自分の国を知らない。帰れもしないのに、そんなお話やたくさんの写真に何の意味があるの?」と聞かれたことで、この本を書く勇気を得た...というところで、本は終わっている。
この内容を一切疑わず素直に読むなら、この人はかなり常識的な人物で、心底可哀相な人である。なんでここまで波乱万丈な人生を送らなくてはならなかったのか。何箇所か、涙腺がゆるんだ(私は本や映画で泣きやすいほうだけど)。
たとえば、国を出るときの話。
高価な所持品を持って行くよう勧める召使をさえぎって、彼女は特に好きな本とアルバムだけを持ち出す。
国が落ち着いたら戻ってこられるのではという希望を捨てたくない思い、そして自分達が国を出たと知ったら暴徒が王宮になだれ込むだろうから、そのときに財産をすべて持って逃げたを思われたくないと言うプライド...思い出の品だったあっただろうに、置いて行くのはどんな気持ちだったか。そのおかげで、私たちはテヘランに行けば博物館で王家の財宝を見られるらしいが...。
また、ニューヨークでの療養中、入院していた病室の外で「王に死を!」と叫ぶデモの声を聞く場面。本当に死と闘っている人の前で、なんという心ないふるまいかと胸の破れる思いをするが、病床の王のそばにいる彼女は、そこで泣き崩れるわけにはいかない。そして起きる、在テヘランアメリカ大使館占拠事件...あなたは国民のために尽くしてきたと過剰なまでに王の業績をたたえたうえで、そんなあなたなればこそ、人質を救うために、犠牲になってくれと説得にくる役人...。
そして、娘の死。
パリにいて、どんどん安定剤や睡眠薬の量が増えていっていたレイラ王女が、一人でロンドンに行きたいと言い張り、医者も認めざると得なくなり許可するが、ファラ王妃は心配でならず、ロンドンの友人に様子を見に行ってくれと頼む。王妃は、王女を起こすことを極端に恐れていた。なぜなら、電話で起こされた王女はこう言うのだ。「ああ、お母様なのね。今私、眠ってたのよ。ほら、これでまた眠るために睡眠薬を飲まないといけなくなったわ」
こんなひどい言葉をきいたら、娘の身を案じる親はどんな気持ちがするだろうか。いくらあなたが辛いからって、病んでいるからって、こんなこと言ってはいけないよ。あまりに可哀相で泣けてくる。
そして虫の知らせなのか、イヤな予感に焦りを覚えた王妃の依頼で、王女の泊まっているホテルを訪問した王妃の友人は、王女の死を知る...あああ、あんまりだ。
不幸にしてこの種の経験をしてしまった人には、読んでほしくない本かも...。
気の向くままに書いてみたら長くなったので、今日はいったんここでやめます。
続きは週末にでも。
by telescopio
| 2008-04-25 00:23
| 読書(洋書)