下手の横好き語学学習日記


by telescopio

現代の「悲劇の王妃」か、悪魔の妻か 2

ちょっと間があいちゃったけど、イラン最後の王妃、ファラ・パーレヴィの自伝の続き。
大筋は前回書いたので、省略。

一般に、イランと聞くとなんとなく怖いような気分というか、”判りあえそうもない異質な社会”的なイメージを持つ人は多いと思うけど、逆にペルシャといわれれば、シルクロードのロマンみたいな、良い意味での異文化、エキゾチシズムものを感じる人も少なくないだろう。世界史でも、アケメネス朝ペルシャ、ササン朝ペルシャなんて出てきたし、それはイランの栄光の歴史だと思うし、ポジティブに語られることが多い気がする。「ペルシャの市場」なんて曲もある。
最後の王、モハンマド・レザー・シャーも多分そうだったんだと思う。
現代のイスラム国家の大半は、イスラム以前の歴史を「無明時代」といい、精神面での先史時代、未開時代的な扱いをするのが普通(エジプトは例外中の例外)。実際、イスラム以前のアラブ諸国は部族抗争と略奪に明け暮れた社会が多かったらしいし。
しかし、ペルシャにはイスラム以前に偉大な栄光の歴史があった。
ペルシャがイスラムを受け入れた後も、文化的にイスラム帝国を発展させたのはペルシャ人だという自負もあり、アラブに対するプライドの高さにもつながるけれど、それは国内的には多分問題にならない。難しいのは、イスラム以前の栄光の部分。それを声高に語ることは、相対的にイスラムを軽視するように受けとる人がいて、宗教指導者達の神経に触るらしいのだ。
しかし、王は古代ペルシャ帝国の建国記念イヴェントを、各国首脳を招いて大々的に行った。なんとな~く、これが王朝崩壊の直接的な始まりのような気がする。



この前から、いわゆる”白色革命”という西洋型近代化路線に反感を持つ宗教指導者もいたし、政治家とのトラブルもあったようだし(このあたり、読んでもよく判らんかった)、いろいろ伏線はあったんだけど、決定的になったのが、多分このイヴェントじゃないだろうか。
また、農地改革で大規模地主を解体し、小作に農地を分け与えようとしたのは、日本人としては「別に悪いことじゃないのでは」と思うけど、やり方が性急だったのと、事後処理がまずかったので、かなりの反感を買ったらしい。
さらに国王夫妻は教育の普及にも力を入れ、兵隊を農村に派遣して識字教育をしたようで、一定の効果はあったらしいけれど、田舎に行くほど農村は保守的で、余所者をすんなり受け入れる地盤がなく、特に女子の識字率は上がらなかった(しかし全国平均では上がっていたので、彼らはそういうことは知らなかったようだ)。どうもこの人達は、基本的には良いことをしても、庶民の感覚を知らなすぎた気がする。
これは今の他のイスラム国にも言えることだけど、男女共学や、スカーフの禁止などは、やり方を間違えるとかえって女性を束縛することがある。特に田舎。つまり、共学の学校には親が女子を行かせたがらないし、スカーフを着用できない場所には行かせない、ということが起きる。まして、よその土地から派遣されてきた男性教師の元に娘を通わせるものか。いや、それ以前に余所者が村を歩いているとなったら、娘の外出自体を禁ずるだろう。
そういうことを判らないのは、為政者として、いかにもマズイ。国王はスイスで、ファラ王妃はパリで教育を受けたが、王族の子弟が、外国で教育を受けることの弊害のひとつがここにある気がする。もっといえば、特権階級が直接的に国政を司ることの難しさが。

彼らが良かれと思ってしたことが結果的に反感を招いた、ということの他にも、失策はあったんだろうと思うけれど、それはやはり書かれていない。
あえてあげるなら、国中に国王の肖像を掲げることに、国王夫妻は反対だったと書かれている。文革の後の中国を訪問したとき、国中にある毛沢東の肖像に異様な印象を受けたという描写が先に出てくるし、望んだことではないんだろうけれど(後からならなんとでも書けるが)他にもあちこちのメインストリートに「モハンマド・レザー・シャー通り」と名づけたりすることは、国王の意に反して側近の主導で進められたように書かれている。さて、それは実際どうなのかな。
それと、読んでどうにも釈然としないのは、亡命生活を経済的に支えている資金について。
特に初期には援助してくれる人もなく、当然働けるわけでもなく、生活費はもちろん、難しい病の王の治療や手術費用はどこから捻出したのか?
これについては一切触れられていないけれど、どうやら、早くから資産を海外に分散させてあったらしい。それは亡命生活を見越してのことではなかったとしても、もしくは国の不安定な経済を思い、一種の保険として(私費としてではなく)分けてあったものだとしても、財宝を残して国を出た後も、それなりの暮らしをしていることを、残された貧しい国民が知ったら、そりゃいい気分はしないだろう。国内の混乱を抑えきれずに逃げ出した為政者が、海外で悠々暮らしかよ!って、事実はどうあれ、誰だって思うだろう。

しかし一方、ファラ王妃は人格者で、周囲の人望が厚かったという説もある。
もともと、国王は最初の王妃をエジプトから、2人目をイタリアから迎えた経緯があり、イラン人のファラ王妃が最終的に王子を産んだことで、国民に印象は良かったらしい。
それから、ファラ王妃はセイイェドといって預言者ムハンマドの血を引く家系だったため、婚約時には宗教指導者からも「これで国王が預言者の義理の息子になる」と受けが良かったらしい。この辺の心理、判るような判らないような...。

ファラ王妃は、イランの文化振興にも務め、芸術家育成のために、国際的なビエンナーレや映画祭をイランで開催し、内外の芸術家の発表・活躍の場を設けたり、海外に流出していた古代イランの芸術作品を買い戻したりということにも意欲的だった。
テヘランの宝石博物館には、182カラットという巨大なピンクダイヤモンド”光の海”や、3千個以上のダイヤを散りばめたパフラヴィー・クラウンといった、王家の目のくらむような財宝が見られるそうだし、市の南北にあるふたつの宮殿では、王家の絢爛たる生活ぶりをうかがうこともできるらしい。そういうところに行ったら、やはり「こんなゼイタクしてるから...」」とか感じるのかもしれない。
しかし、そのほかに、例えば絨毯博物館というのがある。
これは革命直前に建てられたもので、イラン各地のアンティークの絨毯が収められている。トルコなどと同じく、イランでも絨毯というのは生活必需品であり、一方で芸術作品でもある。絨毯に実用品としての価値もみる欧州では、ダブルノットでより丈夫なトルコ絨毯の方が人気があるそうだが、日本ではより繊細な図案のペルシャ絨毯の方が有名だろう。
テヘランで、「この博物館は、ファラ王妃様が各地から収集した絨毯を展示しています」というガイド氏の言葉を聞いたとき、なんともいえない気持ちになった。
彼はイラン人だから、日本語を私たちと同じニュアンスでは使ってないにしても、西洋かぶれの悪魔の妻と思っていたら、王妃に”様”はつけないだろう。
他にも、展示品を指して「これは、アメリカのロックフェラーが持っていたものを、王妃様がオークションで競り落としたものです」というような説明があり、少なくとも彼がこの博物館を建てたことに関しては、王妃を評価している気持ちが伝わった。
ちょっと話した中でも、このガイド氏が現体制に大賛成ではないことは感じたけれど(革命後、伝統的なお祭の多くが禁じられたことなど)それとは別に、イランに流れる、ペルシャからの伝統・文化への誇り、それを大切にしようとした王妃へのある種の敬愛が感じられたことは、この本を読んだばかりだった私には、非常に大きな意味があった。

そういうわけで、ここで突然クイズの答えになだれ込むわけだけど、GWの旅行はイランでした。
イスファハンとシラーズに行き、帰りの乗り継ぎでちょっと時間があったので、テヘランで絨毯博物館を見ることができて(宝石博物館は休館日。ここは土~火の2時間半ずつしか開いていない)とても良かった。
街並は全体に整然として清潔で(特にイスファハン)、秩序もあり、優劣ではなくアラブの国とはかなり違う印象を受けた。
しかし近代的な都市計画の中で、伝統の住宅建築や街並が壊された部分があるのも事実で、たとえばバザールを幹線道路が分断している部分などもある。まあ、日本が高度成長期に経験したことに比べれば可愛いものだけど。
イランがこれからどこへ向かうのか、いろいろな意味でそこに注目している人は多い。
今年80歳になるイラン最後の王妃が、祖国の地を踏む日はくるだろうか。
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by telescopio | 2008-05-10 14:07 | 読書(洋書)