下手の横好き語学学習日記


by telescopio

”ペルシャの娘”その2

サティが、アメリカで勉強したいと思った、最初のきっかけ...それは、自由の女神。
子どもの頃、父の雑誌でこの像の写真を見た彼女は、これは何?と訊く。そして、自由の像(Statue of Liberty)という名前を知り、そんな名前の像を建てて、国のシンボルにしているって、いったいどんな国?と不思議に思う。
その頃のイラン人にとって、”アメリカ”とは”外国”という以上の意味を持たなかった。ほとんど情報がなく、取り立てて関係もない国だったのだ。
サティは小学校はフランス人の経営する学校に行き、その後アメリカ人の学校へ行った。だから、その学校の先生達が、アメリカのすべてだった。良い人たちだったから、良い印象を持った。でも、留学を考えたとき、兄のいたフランスではなくアメリカを選んだのは、やはり幼少時に見た”自由の像”を、それをシンボルにしている人たちを、自分の目で見てみたい、という思いが大きく働いたせいだった。

サティが子どもの頃のイランは、イギリスとロシアから抑圧されていた。カジャール朝末期の混乱に乗じて、なんとかイランを手に入れようと、この2国がにらみあっていた時代だ。その後、パーレヴィ朝に入って、イランの石油国営化問題(ここで首相のモサデク氏が登場し、後に禍根を残す更迭劇などがおきる)でイギリスはさらに評判を落とし、加えてイギリスは、悪評高い”3枚舌外交”で、パレスチナ地域に今に続く大混乱を引き起こし、ますますイラン人から憎まれることになる。パレスチナはもちろんアラブだけれど、イランとも関係は深く、何より、イスラム同胞の悲劇であったから。
そんな場面で、新しい友達として登場してきたのが、アメリカだった。
何せそれまでほとんど関係なかった国だし、つきあってみるとフレンドリーな人たちだし、ということで、アメリカに対してはイラン人はだいたい好意的だった。最初は。




雲行きが怪しくなったのは、二代目のモハメド・レザになってから。
王はアメリカの言いなりだ、と世間が噂する。王の秘密警察SAVAKは、CIAの訓練を受けている、と皆が思うようになる。パーレヴィ王朝の問題は、むしろ初代のレザにあったように感じるが、モハメド・レザが、優柔不断で神経質な王だったのは、どうも本当らしい。
初代のレザの問題としては、例えば女性の公の場でのスカーフ着用禁止がある。
サティの母は、スカーフで髪を覆った上から、黒のチャドルを着けないと外に出ないような敬虔な女性で(そもそもめったに外出もしない)、レザから何かと忠誠心を試されていた父が、レザに「国民の手本となるよう、妻を伴って外出せよ」と言われ、やむを得ずスカーフをせずに外に出たとき、恥辱で涙を抑えられなかった、というエピソードがある。
これ、私達が税務署に水着で行けと言われるようなものだと思う。
その点、二代目はスカーフ着用は個人の自由意思に任せたし、初代ほどカジャール朝の関係者を目の敵にしなかったので、サティの家族は新しい王に期待していたようだ。
しかし、どうも王の決断の背景にはアメリカの意向が見え隠れするようになる。王は国民の味方なのかアメリカの味方なのか、判らなくなってくる。
しかし、革命前夜、もはや人心が王から離れ、王には傀儡としての価値もないと知ると、アメリカはさっさと手をひいた。パーレヴィ王朝は崩壊した。
この流れが、なかなかのリアリティを持った文章で迫ってきて、イラン人がアメリカを嫌うのは、何も反イスラム的というような、理念上の問題ではないと判る。自分達も憎くて追放に追いやった王だけれど、その王をそそのかし、言いなりにさせ、役に立たなくなったら、手のひらを返し見殺しにした。そういう思いがあるわけだ。そして周辺のアラブ諸国も、その様子をしっかり見ていた。
前に読んだサウジアラビアのプリンセスが書いた本にも、そういう描写が出てくる。
プリンセスの夫のせりふとして、「自分達の生きている間ではないかもしれないが、子ども達の代には、サウド家は国を失うだろう」という場面があり、それはこう続く。
「今我々が権力を保っていられる理由はたったひとつ、アメリカがサウジの石油を必要としているからだ。しかし、いつか代替エネルギーが開発される。用がなくなったら、アメリカは我々をジャッカルの前に放り出すだろう。かつてパーレビをそうしたように」
こんな強烈な不信感て、いくら大統領が何代も変わろうが、そうそう簡単にぬぐえるものではないだろう。その前のイギリスといい、西洋の豹変を見たのは初めてではないのだし。

アメリカという以前に、サティはなぜ留学したかったか。
父の屋敷という、狭い世界から飛び出したかった。父に認めてほしかった(最初に兄のように留学したいと言ったとき、父は You are a girl. Girls are nothing. と答えた。しかし父は娘達にもちゃんと愛情は注いでいた)。
アメリカへ渡る少し前、パリにいた兄がサティをテヘランの街へ連れ出す。カフェに入り、飲物を勧めるが、サティは人前で飲食をしたことがなく、恥ずかしくて飲むことができない。兄は言う「パリでは、一人でカフェに入り、一人で食事をする女性を何度も見た。アメリカでもそうだろう。おまえは、そういうのが当たり前の世界に行こうとしているんだよ。慣れなさい」。
自由とは、誰かの保護下にないことなんだ...とサティは改めて思う。
そして学位を得て帰国、事業を起こし、ソーシャルワークに身をささげ、がんばってきた結果を革命ですべて失い、教え子に裏切られ命まで狙われ、何年たっても不信感をぬぐえないアメリカに暮らすことになる。
アメリカでの亡命生活に慣れたころ、自分の人生を振り返り、思う。
もう一度やり直せるとしても、私は父の屋敷にとどまる道を選ばないだろう、と。

実に壮絶な自伝で、まさに激動のイランを生き抜いた人だと思う。
ネイティヴでないせいか、英語もそんなに難しい表現はないし、イランに興味のある方は、ぜひ!
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by telescopio | 2008-06-24 00:42 | 読書(洋書)